信頼ならない感情と契約としての愛

気分や感情というのものは不思議で、落ち込んだ気分のときには今まで一度も幸せなんて感じたことがないという気になってくるし、嬉しい気分のときには過去のいろいろな苦しみをゆるせるような気になってくる。

特に抑うつの気分はやっかいで、抑うつの気分に支配されると、喜びとか愛情とか希望とか、そういう前向きな感情をこれまでどうやって感じていたのか忘れてしまう。ただひたすら感じられるのは、心の過剰な重さだけ。この世界に確かに存在する唯一のものが、この心の重さだけである、という感じになってくる。

感情は変わる。気分も変わる。長い時間をかけて、変容する。

三浦綾子さんは「愛は感情ではなく、意志だと思う」と言ったけれども、キリスト教ではこういうふうに愛を感情とは別のところに置いていることが、僕にとってはありがたく感じられる。というのも、愛がもしも感情だとしたら、愛ほど不確かで、「いつまでも残る」に不相応なものはないということになるからだ。

感情は不確かで、信頼ならない。

感情に価値がないというわけではもちろんない。感情は私たちの現在の状態を教えてくれる。恐怖を感じるとき、それは身に危険が迫っているというシグナルかもしれない。抑うつの感情さえ、心の目標や理想が阻害されていることを教えてくれる。自分の感情に気づくことで、自分がどんな状態にあるかを確認できる。

けれども、感情は自分の基礎をそこに置くにはあまりにも不確かで、信頼ならない。信仰の基礎も、愛の基礎も、希望の基礎も、感情という不確かなものに置くことはできない。

キリスト教は愛の基礎をどこに置いているだろうか。聖書が教えてくれるのは、「契約」だ。神が人間を愛するのは、神ご自身が愛であるだけでなく、神がご自分を指して誓った契約のゆえでもある。キリスト教的な愛とは、契約の愛である。

キリスト教によってこういう愛の観念を教えられていることは、本当にありがたいと思う。僕のような気分が激しく上下して、感情を忘れてしまうような人間にも、愛は可能なのだから。

愛とは愛するという契約のことだし、忠実な愛とは契約に忠実な愛のことだ。愛の契約は、契約書にサインしたら強制的にそれを行なわなければならないような世の中のそれとは違う。契約に忠実であらんことを神に大胆に願い求めることのできる。契約は愛を動機に始まり、愛を実らせるために存在し、契約を通して愛は守られていく。