善を行え(脳筋)

C・S・ルイスの『キリスト教の精髄』には、「悪はそれ自体が目的にならない」といったことが書かれている。悪のために悪を行う人はいない。人が悪を行うとき、それが悪だからという理由で、ただそれだけの単純な理由で行うことはない。欲望がある。所有欲だったり、支配欲だったり、破壊欲だったり。

善はそうではない。善は、それが善であるというだけで、行う価値のあるものだ。もしかするとこれはキリスト教的というよりもギリシャ哲学的な考え方かもしれない。その検討は他の人に任せよう。

聖書には普通に「悪を離れ、善を行え」と書いてある。どうして善を行うべきなのか。それは善はそれ自体が「よい」ものだからだ。……堂々巡りになりそうな話ではある。なにしろ、それ自体が「よい」ものであると認めても、ではどうして「よい」を目指すべきなのかと問えるからな。

いったんここは目をつむろう。善はそれ自体が目的とする価値のあるものである。これは認めることにしよう。

いくつか具体例を考えよう。

どうして毎週、礼拝に行くべきなのか。神が「礼拝せよ」と言うからだ。神のことばに従うべきだからだ。神のことばに従うのは善だからだ。

どうして人を愛すべきなのか。聖書にそう書いてあるからだ。(聖書に書いていなければ人を愛さなくてもいいのだろうか?)聖書のことばに従うのは善だからだ。

善だから。そういう理由でいったんは止められる。それ以上理由を考えなくてよくなる。これは便利だ。

上にあげた例は、他の理由だって考えられる。どうして人を愛すべきなのか。それは自分が愛着を感じているからだ。それは将来に後悔しないためだ。それは自分を経済的にも精神的にも守るためだ。などなど。

自分へのメリットがある場合が多い。礼拝に行くことも、人を愛することも、ゆるすことも、メリットがある。だから善を勧めるときに「あなたにもメリットがある」と言うこともある。聖書の中にもそういう節はある。自分は善を行ったという良い気分さえもメリットになりうる。自分が気づいていないだけで、めぐりめぐって何らかのメリットがある場合もある。

でも、善というものは何のメリットが自分になかったとしても善であることに変わりはない。善はそれ自体がよいのだから。ふむ。メリットに訴えることは、善がそれ自体よいという真実を見えにくくしているかもしれない。

善はそれ自体よい。僕にとってはすがすがしさを感じる真実だ。人を愛するのに、その人に愛着を感じていなくても、共感ができなくても、これといった理由が思い浮かばなくてもよいのだ。とにかく人を愛せ、それが善なのだから。理由の重荷から解放される。理由を説明しなくて済むのは楽だ。

あまり気の進まないことをしなければいけないとき、私たちは理由を求めがちだ。納得のいく理由があれば、こうだから仕方ないか、と自分の気持ちをそこにもっていける。皆がそうではないが、理性的な人はそういう傾向がある。自分で意義を感じられない義務を継続してやれるものではない。

だが、善ならどうか。よいことだから。これでオーケー。じゃあやろう。

なんだか思考停止しているみたいだ。いや、じっさい思考停止しているのだ。しかし善はそれを行わせる動機もある。善はそういうものだ。

善を行おう。それが善かどうかわからなくて悩むこともあるだろう。善のつもりだけど大きなお世話だったり迷惑だったりするかもしれない。まあ失敗したらやり直せばいいじゃないか。無責任かもしれない。それでもいい。善を行おうじゃないか。