プロテスタントの聖書観は聖書のみか

よく言われるカトリックプロテスタントの違いにこういうのがある。

カトリックは「聖書」+「伝統」 ・プロテスタントは「聖書」のみ

この対比はわかりやすいが正確ではない。物事を単純化すると必ず抜けもれがある。しかもたいていの場合、重要な要素だ。この単純な対比によって抜け落ちてしまったものについて考えたい。

プロテスタントにも伝統はある

プロテスタントにも伝統はある。ルター派にはルター派の、改革派には改革派の、ペンテコステ派にはペンテコステ派の伝統がある。教会のあり方、礼拝の形式、聖書の読み方、伝道の仕方。

当たり前のことだ。人が集まってグループを作る。そのグループは人のアイデンティティと深く関わる繊細な部分を担っている。ノウハウと知恵が蓄積され、伝統が作られる。

確かにプロテスタントで明示的に伝統を保守すべしと言われることは少ないかもしれない。しかし、個人からひとつの教団・教派が生まれるケースはよくあり、その創始者は教祖ではないものの教団の伝統として参照され続ける。たとえば、チャック・スミスから始まったカルバリーチャペルは、チャック・スミスの思想が伝統となって生きている。聖書に忠実であることを旨としているから教理や教会運営方針は今後も変わりうるだろうが、しかし創設者の思想の影響力は教会内で生き続けるだろう。チャック・スミスと異なる考えの牧者がいれば、別の教会を作るだけのことだ。

伝統を自覚すること

プロテスタントは「聖書のみ」だろうか。宗教改革における「聖書のみ」は、教会権力に対するキリスト教内の自浄作用だった。その意味が徐々に移り変わり、「聖書のみ」を教会と信仰の重要原理として語る人たちが出てきた。さらには高等批評や進化論に対立する原理として教会は「聖書のみ」に立つべきであると考えられるようになった。権力に対抗する手段ではなく、神の知識を得るための第一原理となったのだ。

「聖書のみ」を標榜するプロテスタントの教派はあまたある。しかし……、いや、批判的になりそうだったので言い方を思い直した。

プロテスタントは「聖書のみ」だという単純な考え方に対して、違った角度から見ることを提案したい。われわれが「聖書のみ」に基づいて聖書を開いて、理性をもって教理を取り出そうとするとき、どのような伝統の上に立っているのかと自問したいのだ。その理性的な読み方はどんな伝統から来ているのか。教理を導出するその論法は、その推論はどんな伝統から来ているのか。

われわれの伝統をあらわにすること。伝統を破壊するためではない。われわれの立っている場所を知るために、われわれが何者であるかを知るためにそれが必要なのだ。

カルト化の根は歴史からの孤立

「聖書のみ」を第一原理として伝統を無視するとき、プロテスタント教会は容易にカルト化する。教会が独善的になり、自分たちだけが真理を知っていると考えるようになり、排他的になり、社会との健全な接点を持てなくなり、教会内の批判が許されなくなり、暴走が止められなくなる。

「聖書のみ」という原理が悪いのではない。伝統を無視することによって、歴史から孤立してしまうことが原因だ。歴史は単純化して語れるものではない。歴史は複雑で、豊穣で、不確かで、膨大だ。だからつい嫌煙してしまうのはわかる。

しかし歴史を切り捨てるとき、われわれの理性は、単純化する誘惑に耐えられなくなる。「聖書のみ」はシンプルなコンセプトだ。だが大きなものを切り捨ててしまっている。シンプルなコンセプトは人々を惹きつけて短期間で成果を出すための原動力にはなるが、いつか切り捨てたもののツケを払わなければならない。

むすび

だからもっと学ぼう。聖書はどう読まれてきたのか。キリスト教の歴史に連なろう。