他人の偶像崇拝の罪を指摘することは難しい

クリスチャンの偶像崇拝について考える。

偶像崇拝とは何か。何をもって偶像崇拝と言えるのか。考え始めるとこれは思いのほか難しい。

偶像崇拝とは「神以外を崇めること」である。クリスチャンは三位一体の神を崇めている。だからクリスチャンにとって、三位一体の神以外を崇めることは偶像崇拝である。これが最初のステップだ。常識的だ。変わったところはない。

だがクリスチャンがクリスチャンを自称するからには、意識的に三位一体の神以外を崇めはしない。異端でない限りは。ではクリスチャンは偶像崇拝の罪を犯さないか。そうでもない。ほかのすべての罪と同じように、クリスチャンであっても偶像崇拝の罪を犯すことはある。気づかないうちに、自分でも知らないうちに。

もしクリスチャンが偶像崇拝の罪を犯すとしたら、自分で知らないうちに犯す。これは「嘘をつく」とか「盗む」とかいった罪と比べると、異なった性質だ。そうした罪はそれが罪だとわかっていて犯す。ところが偶像崇拝の罪は、それをしたら罪であるとわかっていて犯すことはふつうできない。意識的な偶像崇拝は信仰を捨てるようなものだからだ。

ほんとうだろうか。もう少し検討しよう。たとえばこう反論できるかもしれない。日本の仏教式の葬式でクリスチャンが焼香をあげるのは意識的な偶像崇拝の罪ではないか、と。立場の違いはあるにせよ、焼香をするクリスチャンにも言い分はある。死者を悼む文化的な所作をしているだけであって、三位一体の神以外を崇拝しているつもりはないのだ、等だ。焼香をあげる所作をしたとて、罪であると知っていて偶像崇拝をするという状況にはならないのだ。

とはいえ、焼香の是非という個別ケースに今の時点で深入りするつもりはない。何しろ、今は偶像崇拝とは何かを考えているのだから。焼香という個別の具体例を考えようとしたのは時期尚早だった。一般的な問題を考えているのだから、ひとまず一般的なまま先に進んだほうがよさそうだ。

偶像崇拝は、嘘や盗みよりも、傲慢に近い。いや、近いどころではない。傲慢、特に「自分を神よりも上に置く」という罪は、偶像崇拝を内包している。自分を神よりも上に置くとき、自分を崇拝してもいるのだから。

そして傲慢もまた、知らずに犯す罪である。三位一体の神を信じかつ告白するクリスチャンが、どうして自分の信仰告白に真っ向から反することを意図的にできるだろうか。

さらに傲慢は嘘や盗みと違って、特定の行為をもって客観的に判定できるものではない。「これをしたら傲慢である」とはっきり判定できない。傲慢になるときには罠にかかるように、ふつうの日常を送っている生活から地続きに、知らないうちに傲慢の罪に捕らえられていくのである。

偶像崇拝にも同じ性質があるのではないか。特定の思考・行為をもって客観的に「これをしたら偶像崇拝である」と判定できる基準がない。聖書にも「むさぼりこそが偶像崇拝である」と書いてある。偶像崇拝はきわめて内面的な罪なのだ。行為から見分けがつかないだけでなく、罪を犯す本人からも隠れているほど内面的な、内奥的な罪だ。

隠された罪。

ところで、他人の隠された罪を指摘するのが好きな人がいる。僕もそのひとりだ。他人の隠された罪を明らかにするのは楽しい。不謹慎な話だ。

しかし、隠された罪を指摘することには慎重にならなければならない。

その理由は第一に、隠された罪をあばいたつもりでもそれが罪でない可能性がある。偶像崇拝にせよ傲慢にせよ、論理的には罪であると言えたとしても、それを罪だと断言できるためにはつねに神の視点を必要としている。

隠された罪は客観的な判定基準が存在しないだけでなく本人ですらそれに気づいていないのだから、どのようにして第三者が知り得るのか。

論理的にはどんな人にも傲慢を指摘できる。「あなたがもし自分は謙遜だと思っているなら、謙遜という徳を持っているという傲慢である。もし自分は謙遜だと思っていないなら、そのとおり傲慢である。」

偶像崇拝も同じようなことが言える。「あなたが神を第一にしていると思うなら、神を第一にするという自分の信念を偶像崇拝している。あなたが神を第一にしていないと思うなら、そのとおり偶像崇拝している。」

こじつけ臭いだろうか。けれども似たようなことを真面目に言う人はたくさんいる。僕自身も書いたことがある。

隠された罪の指摘はいつでもできる。どんな相手でも陥れることができる。あなたが知らないだけで実はそうなのだと言い切ることもできる。

これは隠された罪を指摘するという誘惑、と言ってもよい。じつに魅惑的だ。

さて、隠された罪を指摘するのに慎重にならなければならない第二の理由。

たとえ偶然にも正しく指摘できたとしても、指摘された人が悔い改めに至るには聖霊の働きによるしかないという点である。

隠された罪を指摘される。本人は知らないうちに罪の罠にはまっていたことを悟る。目からうろこが落ちるようにして罪から目覚める。悔い改め、神に立ち返る。こういうプロセスを、罪を指摘する者が引き起こすことはできない。聖霊の業そのものだから。

逆に、人間的な動機で指摘するとどうなるか。あいつは気づいていないようだから言ってやろうといった善意に基づいているかもしれない。しかし、聖霊の働きがなければ悔い改めには至らないのだから、指摘しても当然何も起こらない。

それだけでなく、隠された罪は隠されているままだ。罪を懇切丁寧にわかりやすく説明してやさしく諭したとしても、その罪は隠されたままである。

となると罪を指摘したはずのこちらが、ありもしない罪をでっちあげて人をはめようとする傲慢な人だと評されるかもしれない。いや、もうほんとうに傲慢になっているのかもしれない。誰も得しない。誰も更生しない。

そういうわけで結論。

最初に戻る。何が偶像崇拝なのかを判断するのは難しい。指摘するのはもっと難しい。