『義認の教理に関する共同宣言』がすごい

ローマ・カトリック教会とルーテル世界連盟が1999年に出した『義認の教理に関する共同宣言』が素晴らしい。宣言の文章自体が素晴らしい。宗教改革以後カトリックプロテスタントが対立してきた歴史を詳しく知らなくても、この宣言は読む価値がある。

この宣言文には〈対話の姿勢〉がある。信念を異にする者同士の対話がいかに難しいか、インターネット上に生息している人なら誰もが実感するところだ。多くの場合、対話が成立せず不毛な論争となってお互いに疲弊する。個人同士の対話ですら難しいのだから、歴史的に溝を深められてきた組織同士であればなおさらである。

対話はどうして難しいのか。それは相手の主張を理解しがたいからである。言葉の表面上はわかったつもりになる。けれども、相手の懐に入って、相手の文脈と語彙体系の中で、隠れた前提を見出しつつ相手の主張を理解することは、難しい。言葉尻を捉えてしまったり、理解する前に拒絶反応を示してしまったりすると、対話はますます難航する。

本当は、対話であれ批判であれそれをまともに行うためには、好意の原則(善意解釈の原理)が不可欠なのだ。相手の言っていることをひとまず正しいものとしてまるごと受け止める。一見矛盾しているように見えても、相手の中では何らかの整合的な解釈が取られているはずであるとする。そういう原則だ。

しかし、好意の原則は我々の自然な感情に反する。異なる意見を聞いたときに脊髄反射的に反論したくなるのは、我々の感情に由来しているからだ。

カトリックとルーテルで実際にどんな対話が行なわれたのかは知らない。だが、『共同宣言』から想像することはできる。以下、断定口調だがすべて想像である。

人間の義認に関して両者はこんなふうに対立した。

  • カトリック側は、神と人との協働を説く。
  • ルーテル側は、神と人は協働できないと説く。

これはもう真っ向から対立せざるを得ない。協働できる vs 協働できない。対話の姿勢が欠けていたら、以下のような非難合戦になろう。

カトリックはこう言う。「ルーテルは、神と人との協働を否定している。だから、救いの過程に人格的な参与があることを否定しているのだ。これでは人間はまるで機械人形ではないか」

ルーテルはこう言う。「カトリックは、神と人との協働を説いている。つまり救いには人間が行う行為が関与しているわけだ。これは恵みのみによる救いを否定している。人間が自分の救いに関与できるのであれば、十字架は不要ではないか」

ほんまモンの宗教論争である。しかし、『共同宣言』は、両者がどのような意味で「協働」と言っているのかに着目している。

カトリックが「神と人との協働」と言うのは、「人を救おうとする神のわざに同意する」ということを意味している。さらに、この「同意」そのものも、神の恵みなのだ。よって、「救いは恵みのみ」という原則に関してはルーテルと食い違いはない。

また、ルーテルが「神と人は協働できない」と言っているのは、神が人を義と認めるわざにおいて、人間が自分の行為をもって貢献するという可能性を除外しているのだ。人間が救いに対して同意したり拒絶したりが可能であるということを否定しているのではない。よって、人間の責任や人格的参与を否定するものではない。

『共同宣言』にはそう書いてある。表面的には抜き差しならない対立だが、対話によりお互いの主張の真意が明らかになり、お互いに断罪の必要がなくなる。それだけでなく両者を併置することによって「義認」に関する理解が深まる。

どうしてこのような対話が可能になったのか。『共同宣言』は明らかにしている。第14項「福音を共に聴くことが、義認に関する理解の共有に導いた」。対話の秘訣は「共に聴くこと」だ。これこそがキリスト教である。対話を可能にするのも、人間の相互の努力によるのではなく、神の恵みのわざなのである。(そしてもちろん、このことは対話に置ける人間の人格的参与を否定するものではない。)

最後に、『義認の教理に関する共同宣言』(ルーテル/ローマ・カトリック共同委員会訳)を引用する。この文章は、『共同宣言』のこの箇所に感銘を受けて、ここを説明したいと思って書かれたものである。

(35ページより)

20 カトリック側が、人間は、人を義とする神の行為に同意することによって、義認への準備と受容において神の義認の業に「協働する」と言うとき、彼らはそのような人格的な同意そのものに、恵みの働きを見ているのであって、それを人間が自分の能力によって行う行為だと見ているのではない。

21 ルーテル側の理解によれば、人間は自分の救いのために協働する能力をもたない。なぜなら、罪人として人間は神とその救済の行為に対して積極的に反抗するからである。ルーテル側は、人間が恵みの働きを拒絶しうることを否定するのではない。彼らが、人間は義認をただ受動的にのみ(mere passive)受け取ることができると強調するとき、それによって自分自身の義認への貢献の可能性を除外する。しかし、神の言葉そのものによって引き起こされる信仰において、完全な人格的な参与があることを否定するものではない。