ナラティブとしてのキリスト教信仰

Mちゃんがこういう話をしてくれた。

「どうしてイエスさまを信じるようになったかって、人に話すたびに説明が変わることない?あるときには、ある本を読んだことがきっかけでと話したり、またあるときには、教会の礼拝に初めて出たときに涙が止まらなくなってと話したり。でもどういうふうに話したとしても、私が信仰に入ったことの十分で的確な理由が説明できている気がしない」

これだ、と思った。これ以上に正確にナラティブとしての信仰を述べる力量は僕にはない。

ナラティブ。それは「物語」とも訳されるが、物語を語る行為と、語られる物語の両方に言及した概念だ。ナラティブ・セラピーというものもあって、医療・看護の分野でも注目されているらしい。

なぜ物語が大切なのか。それは、人間は、いや〈私〉という存在は、物語という形式のもとでのみ理解されるからだ。

たとえば〈私〉の信仰を人に語るとしよう。このとき、概念や命題を並べるだけでは、「うまく説明できた」という感じがしない。ツイッターのプロフィール欄のようにスラッシュ区切りで、

プロテスタント使徒信条/三位一体/聖霊の賜物の継続説/艱難前携挙説/字義解釈/ルター好き/創造説」

と並べてみて、〈私〉の信仰を理解してもらえると思えるだろうか。(お断りすると、上の項目は僕の信条ではないが。)それは〈私〉の支持する信条のセットではあるが、信仰の説明としてはある重要な部分が抜け落ちている。その重要な部分からすれば、このような信条セットの提示は、何も語っていないに等しい。

信仰を語るときには、いつも〈現在の私〉に結びつく物語として語る。

「数年前、悩んでいた時期に、ある牧師と出会った。その時期にいろんなことがいっぺんに起きて、牧師の話を聞いて聖書を読んでみようと思った。はじめはピンと来なかったが、ある日通勤の電車の中で、詩篇の聖句が心の中に鳴り響き、電車を降りると同時にイエスをキリストと信じるようになっていた」

…というように。

物語というものは、時系列で起きた出来事を並べ、それらを〈私〉を芯として互いに関連付け、時にはディテールを省略しながら、〈現在の私〉が物語の終着点となるように構成されていく。

〈私〉の物語を語ることについて、際立った意義が二つある。

第一に、語り直しの可能性が常に開かれていること。〈私〉の物語は終着点である現在が常に変化するので、そのつど語り直され、過去の意味付けもまた変化の可能性にさらされている。

第二に、〈私〉の未来を見る視点を与えること。過去から現在に至る物語を語ると、その物語の筋にそって、未来に対する解釈があらかじめ提示される。暗い物語であれ明るい物語であれ、それは未来に向かって意味を投げかける。

しかしながら、これらの特徴は「じゃあ明るい物語をいつも語るようにすれば私の人生は変わるんだね」と楽観的に言えるようなものではない。私たちは自分で自分の物語を簡単には変えられない。

物語は重い。幼少期の苦痛の物語や壊れたセルフイメージによる物語は、〈私〉を支配する。失望の物語が、未来の扉を冷たく閉ざすかのように、未来の〈私〉を規定する。人は物語に縛られ、押さえつけられ、何度も同じ物語を語るように強いられる。不本意に弾き始めてしまった旋律を仕方なしに変奏させるようにして。

けれども、イエス・キリストの物語は、完全に〈私〉の外からやってきて、〈私〉の物語を変える。どれくらい変わるかというと、まず主人公が変わる。ジャンルが変わる。作者が変わる。〈私〉の物語の主人公は、実は神だった。〈私〉の物語は、ヒーローものだった。そもそもが神の書く物語だったのだ。

そして冒頭の話に戻る。〈私〉の物語にイエス・キリストが到来してくるという事件は、非常に複雑なので、何度も語り直すことができるし、語るたびに〈現在の私〉に意味を供給し続ける。いのちの源泉なる方は意味の源泉でもある。だから信仰のナラティブを何度も語ろう。

参考:『物語としてのケア』(野口裕三)