福音を伝えるとは、世界の隠された真実を告知すること

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ福音書三章十六節)

これを伝えたいと思います。この最も有名な聖書の一節で、福音を伝えたい。しかし、福音を伝えるとは、どういうことなのでしょうか。

少しずつ進みましょう。福音を伝えるとは、何ではないのでしょうか。

福音を伝えるとは、ただの知識の伝達ではありません。知識、たとえば「○○という用語の意味は□□である」といった定義文は、私たちが言葉を用いている限り、確かに必要なものでありますけれども、福音を伝えることはそれ以上を含んでいます。もし知識の伝達こそが福音宣教であるなら、私たちの仕事はWikipediaを充実させれば達せられます。しかし、そう考えているキリスト者はほとんどいません。

また、福音を伝えるとは、行動を促したり価値観の変化を迫るだけのものではありません。これまた、確かにそれは必要ではありますけれども、福音を伝えることはそれ以上を含んでいるのです。私たちが「イエス・キリストを信じてください」と語るとき、「信じる」という行動を促していますが、実はそれ以上の含意を持っています。

では、福音を伝えるとは、どういうことでしょうか。知識の伝達だけでもなく、行動の促しだけでもないとすれば、どういう性格のものなのでしょうか。その答えを探るために、私たち取材班は第三の天に飛びました(突然の聖書ジョークです)。

適切な言葉を選ぶのが難しい。ですが、思い切って言うと、福音を伝えるとは、世界に隠された真実を告げ知らせることにほかなりません。

わかりやすさのため、たとえを使うことにします。題して「叔父の告知」です。

悪く恐ろしい両親にあなたが育てられたとして、大人になってから親戚の叔父に真実を告げられます。いわく、あなたを育てた両親は実は生みの親ではない。本当の親は別の国にいて、あと数年で帰ってくることになっている。彼らは優しく良い人たちで、あるやむを得ない事情があって、あなたをあの人たちに預けたのだ。あなたが望むなら本当の両親が帰ってきたときに会える、と。 この簡潔な状況の中に、「隠された真実を告げること」のエッセンスが詰まっています。

叔父の告知は、確かに知識の伝達ではありますがそれ以上を含んでいます。また、告知の中で「会いに行きなさい」と行動を促すこともあるでしょうが、それ以上を含んでいます。

叔父の告知を受けたあなたにとって、世界は一変します。最初は実感が湧かないでしょうし、もしかしたら時間が経っても実感は伴わないかもしれません。疑ってみたり、それについて考えすぎて、しまいには諦めたりもするでしょう。それでも確実に言えることは、告知以後、望もうと望むまいと、あなたはずっと告知の影響下で生きることになります。

叔父の告知が本当に事実であったかどうかがわかるのは、実際に生みの親(と叔父が呼ぶ人たち)に会うときです。叔父は、いついつに何々空港に行けば、生みの親に会える、と教えてくれます。約束の場所にあなたは行くでしょうか。行くとしたら、叔父の告知を信じているのでしょう。信じていなければ、行かない可能性が高い。しかし、行かないにしても、約束の時間に「もしもあの場所に行っていたらどうなるだろうか」と意識するに違いありません。告知の影響から逃れられません。いずれにしても、実際に会うまでは、確かな証拠があるように思えても、いくらかは「信じない」余地が残されます。(ひょっとすると会った後にもそうかもしれませんね)

告知があなたに及ぼす影響は、生涯にわたる長期的なものです。当初は、戸惑いがあるでしょう。別の親がいると知って、驚けばいいのか、喜べばいいのか、恨めばいいのか、いろいろな感情が入り混じって、適切な反応ができないかもしれません。しかし、一時的なショッキングな感情がおさまると、やがてあなたはこれからこの告知と共に生きなければならないことに気づきます。あなたの世界認識において、重要な部分に変更が迫られているからです。

あなたが告知を信じるかどうかは、客観的な要因だけで予測できるものではありません。ある程度は、叔父との個人的な信頼関係が影響するでしょう。しかし、それだけが要因ではなく、不思議と自分でもわからぬうちに信じていることもあるでしょう。逆に、何か説明しがたい不信感が生じるかもしれません。物的証拠、過去の記憶との整合性、自分と育ての両親とが似ていないという事実など、考えるべき要因は多いため、理性だけで判断しようとすれば100%どちらかに振り切ることはできない。にもかかわらず判断が迫られる。

――たとえ話はこれくらいにしましょう。隠された真実を告げることは、これほど強力で、人生に実際の影響力を持ち、個人史を揺さぶる事件です。このたとえは、そのまま福音の告知に当てはまります。ショッキングな出来事であること、過去と人生の意味を全面的に塗り替える可能性があること、受け入れるかどうか選択が迫られること、受け入れないにしてもその影響力は無視できないこと、等々。福音の告知は、個人的な真実に終わらず世界の真実を知らせることなので、その衝撃は人類史を揺さぶります。実のところ、今も揺さぶり続けています。

以上のように福音の告知を捉え、それを土台に据えて、ヨハネ福音書三章十六節を読み直しましょう。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

この一節はどう読まれるべきでしょうか。個人的、実存的にでしょうか。書かれた当時の歴史的文化的背景を踏まえてでしょうか。キリスト教共同体の信仰告白と重ねてでしょうか。いえ、それらは大切ですが、ここで扱いたいのは、むしろそうした具体的な釈義に進む以前の読み方です。

どのように釈義するにせよ、隠された世界の真実を伝えるのでなければ、福音の告知と何の関係もありません。この一節は、まさしく、隠された世界の真実を伝えているのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」想像してください。もしもこの言葉が真実なら、これ以上に驚くべき真実があるでしょうか。真実の生みの親を告知される時以上に、私たちは驚き、戸惑い、立ち尽くし、反発し、反論し、逡巡し、身ぶるいし、呆然とするに違いありません。非合理的な話にさえ聞こえるかもしれません。世を愛される神よりは、宇宙に法則と初期値と存在のきっかけだけを与えてあとは外から眺めるだけの神のほうが、まだ合理的に思えるかもしれません。あるいは、世界の創造主が存在するにしても、残酷で冷酷で悪いやつだと言われたほうが、まだ納得できるかもしれません。福音は、隠された真実というにはあまりにもとっぴな内容です。

ある人たちは、ヨハネ福音書三章十六節を何度も聞き、飽き飽きして、聖書の「もっと深い解釈」を求めて奔走します。聖句間の有機的なつながりや、時代背景の裏話や、整合性の取れた釈義や、何々主義による解き明かしなど。あたかも、もっと深い解釈をすれば、もっと深い恵みにありつけるかのように。彼らの根本的な動機は、神のことばを求める霊の飢え渇きであって、純粋なものです。けれども、深い聖書解釈は本当にその人たちが求めているものだったのでしょうか。愛は人の徳を高めるが、知識は人を高ぶらせると書いてあるとおり、深い解釈が人を高慢に導くことさえもありえます。その人たちが本当に求めているものは、深い解釈よりも、見えなくなってしまった世界の真実をもう一度見ることではないでしょうか。

福音は、初めて聞く人にとっても、何度も聞いて慣れきっている人にとっても、世界の真実であり続けます。私たちは何度でも、いのちの水の湧出する場に立ち会うことができます。だから、クリスチャンは臆面もなく言い続けることができます。神があなたを愛している。そのひとり子をお与えになったほどに、と。単純で、これ以上付け加える必要のない、力強い告知です。

福音を聞いたからといって、何が変わるのでしょうか。福音を知らなかった昨日と、福音を知った今日とでは、何か違いがあるでしょうか。ある人にとっては昨日と変わらない苦しみが今日も続き、昨日と変わらない膠着状態が今日も続くかもしれません。

世界の見え方が変わる、意味が変わる、相貌が変わる。それもあるでしょう。でも、それだけではありません。私たちは「宗教は悪い状況を変化させないが、状況に意味を与えることができる」という現代的な考え方に慣らされているため、すぐにそういう理解に走りがちです。けれども、真実を意味の領域に押し込めてはいけません。叔父の告知のたとえを思い出してください。あの告知は実際的で、状況が変化しうるものでした。福音にはそれ以上の力があります。

最も深いレベルで言えば、福音を聞いて変化するのはあなた自身です。世界を認識するあなたの目が変われば、もちろん世界の見え方は変わります。世界と関わりをもつためのあなたの口が変われば、もちろん世界との関係も変わります。それらは、あなた自身が変化したことによる結果です。あなた自身の変化、この変化は、過去の経験の蓄積による語彙では表現できないような種類のものです。パウロはキリストと出会うことで目からうろこのようなものが落ちました。そういった、明らかに適切でないような比喩によってしか指し示せない種類の変化です。それもそのはずです。なにしろ、実在する愛、実在する希望と出会うのですから、どんな語彙で表現しても的確にはなりません。

聖書を読むとき、そういう期待を持っていいと思います。期待が裏切られることはありません。大いに期待して読もうではありませんか。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」