弱者らしくあらねばならぬという規範

貧困JKに始まったことではない。日本にはどういうわけか「弱者は弱者らしくあらねばならぬ」という規範がある。弱者に対して「弱者はかくあるべし」という弱者像を押しつけ、その弱者像から外れた者を批判・排除する。ものさしに合わない者が「弱者」としてニュースなどで紹介されるとネットで炎上して弱者叩きが起きる。これが何度も繰り返されている。

なぜこのようなことが起きるのか。弱者叩きに一定の正義があると信じる人たちがいるからだ。だが、その正義の内実がいかに空虚で無責任なものかを明らかにしたい。

重要な原則として、弱者を定義する目的は弱者を救済するためである。これに同意できるかどうかが議論の分かれ目である。

さて、弱者を定義する目的は弱者を救済するためである。貧困を例にとろう。誰が貧困であり誰が貧困ではないかを線引きするのは何のためか。貧困の定義はいくつもあるが、適切な定義を求めるのは何のためか。それは、社会の中で誰が貧困であるかを明らかにして、貧困者を支援するため以外のなにものでもない。

もちろん論理的可能性として、他の目的はありうる。弱者像を押しつける者にとっては、「ニセの貧困者を暴き出すため」かもしれない。素朴に考えると、ニセの貧困者を暴き出すことで、社会の貧困支援の支出を減らせるのだから、その目的は正当なのだと主張できる。だが、事はそれほど単純ではない。貧困JKの例を思い出そう。彼女は貧困者として国から支援を受けているわけではない。しかしニセ貧困者として叩かれた。叩く人たちにとって「ニセの貧困者を暴き出す」という目的には、それ自体が目的として価値をもつような正義なのだ。

しかし、弱者を定義する目的がニセ弱者を暴き出すためであって救済のためではないのだとしたら、ニセ弱者が排除されたのちに残る「ほんものの弱者」は何のために切り出されたのか。その中でさらに偽物がいるのではないかと嗅ぎ回るためか。偽物判定を受けた者たちが次々に脱落して、弱者にカテゴライズされるものが一人もいなくなるとき、「ニセ弱者を暴き出す」という目的は遂に達成される。