悪に嫉妬することについて

この短い文章は、自分の嫉妬の感情に苦しんでいるあなたに向けて書いたものです。嫉妬の苦しみから解放されるための一助となることを願っています。

嫉妬とは何か

嫉妬は複雑な感情です。話をすっきりさせるため、一般的な話から始めましょう。嫉妬は、以下のような流れで生まれます。

  • 他人が x を持っている
  • 自分が x を持っていない
  • x を激しく欲する
  • x を持っている他人に敵意を抱く

x には、いろいろなものが入ります。お金、社会的地位、成功、知識、健康、良好な人間関係、美貌……。社会的に価値あるとされるあらゆるものが、嫉妬のきっかけになりえます。

嫉妬が複雑なのは、他人の所有がからんでくるからです。自分がある物を持っていなくて、それを激しく欲しているだけなら、それはただの渇望です。渇望、欲求、向上心。それは苦しみをもたらすものではなくて、むしろ生の原動力になります。

嫉妬の特徴は、破滅的な願望であるということです。x を持っている他人を滅ぼそうと願うだけでなく、そのためなら自分の身を滅ぼしてもよいとさえ願います。嫉妬は、x を手に入れるためにアクションを起こそうとする健全な欲求さえも阻害します。いずれ嫉妬は容貌を変えて、x を欲しがる渇望ではなく、x を持つすべての他人を滅ぼそうとする憎しみとなります。そういう意味で、嫉妬は生の足かせです。

善いものに嫉妬することは可能か

先ほどはさらっと書いてしまいましたが、嫉妬のきっかけとなる x は「社会的に価値あるとされるもの」です。「価値あるもの」ではなく「社会的にあるとされるもの」。これは重要な違いです。

「社会的に」という制限を外して、価値あるものを思い浮かべてみましょう。普遍的に、私たちキリスト者にとって価値あるもの。永遠の価値あるもの。

そうです。永遠のいのち、御霊の実、信仰、愛、希望、そういったものです。私たち人間の中には存在しない、神だけがもっておられる価値です。人間が努力によって勝ち取ることも育てることもできない、ただ恵みによって与えられる、何にも取り替えることのできない価値です。

では、質問です。ある人がこういった価値を持っていたとして、その人は嫉妬の対象になるでしょうか。

たとえば、謙遜な人。御霊がその人に内住して、謙遜という御霊の実をみのらせてくださっているとしましょう。その人は、「謙遜」という価値あるものを持っているために、嫉妬の対象になるということがあり得るでしょうか。

個人的には、嫉妬の対象にならない、と思います。

なぜなら、その人が「謙遜」であることによって益を受けるのは周りの人だけだからです。謙遜な本人は、謙遜であるがゆえに、目立たちません。人気も得られず、もしかしたら感謝されることもありません。御霊が私たちに恵みを与えるのと同じ作法で、ひっそりと周りの人に仕えているのです。謙遜な人にとっての利益は、人に注目されないこと、誰にも褒められずに済むことです。

ほんとうに善いものは、人間の中にはなく、神から来るものである。そして、ほんとうに善いものに人は嫉妬しない。いや、嫉妬できない。つまり、先ほどの x において、神から来る賜物は対象外ということです。これは個人的な体験からそうだと感じたことですが、きっと同意していただけるのではないでしょうか。

悪に嫉妬するということ

悪に嫉妬するという表現は、聖書の中にも出てきます。

詩篇73:2-3

しかし、私自身は、この足がたわみそうで、 私の歩みは、すべるばかりだった。 それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、 悪者の栄えるのを見たからである。

箴言24:19

悪を行う者に対して腹を立てるな。 悪者に対してねたみを起こすな。

悪を行う者にかぎって健康で、繁栄していて、長生きして、友人も多い。そういう人に嫉妬してしまいがちな私たちの性質を、聖書はよく知っています。

しかし、嫉妬にはもっと微妙なケースもあります。「善い人」に嫉妬してしまうのが、それです。

善い人、善く見える人。愛があり、多くの人の好意を集めて、感謝されている人。そういう人に嫉妬を感じるとき、あたかもその人の善良さに嫉妬しているように感じます。善いものに嫉妬することはできないのですから、これは錯覚なのですが。

実のところ、そういう人はそれほど善くはないのです。人気取りや、高ぶりや、嫌われたくないという思いから、善さそうにふるまっているだけかもしれません。行ないの動機は本人と神にしかわからやいので、誰にも立ち入ることはできませんが、嫉妬の対象になるということから察すると、周りが評価するほど善いわけではなさそうです。

嫉妬という感情。それ自体は罪の性質であるのに、他人の罪や偽善を見抜くような鋭さがあります。善く見える人の、隠れた狡猾さや高ぶりに反応する。そして、その人が築き上げた素晴らしい結果を見て、嫉妬するわけです。これもまた、聖書の言う「悪者に対するねたみ」ではないでしょうか。

嫉妬の正体を知ることと嫉妬から解放されること

ここまでで、嫉妬の正体を掘り下げてきました。嫉妬は本質的に「悪者に対するねたみ」であり、善いものに対してではないことを書いてきました。それを知ることが嫉妬からの解放の助けになる、と私は考えています。

嫉妬には劣等感が伴います。端的に表現するなら、「なぜあの人は、神にも人にも愛されているのに、私は愛されていないのか」。

しかし、私たちはもう知っています。このときに起こる嫉妬は、「あの人が神にも人にも愛されている」からではないのです。そのように見えたとしても、愛や祝福が嫉妬の原因ではありません。その人の内に隠された罪の性質に反応して、嫉妬の導線が発火したのです。嫉妬は相手の罪の性質を上手に隠蔽して、「お前は愛されていないのだ」と攻撃の矛先を変えてきます。

嫉妬の戦略。嫉妬も「罪の誘惑」のひとつなのですから、人間を破滅させるための戦略を持っています。嫉妬の戦略は、真実を隠すこと、劣等感を植え付けること、破滅的願望を強めることです。「あの人が神にも人にも愛されているから私は嫉妬する」というのが、嫉妬の最初の戦略です。そのようにして真実を隠します。

ですから、最初の戦略に抵抗して、真実を暴くなら、嫉妬の出鼻をくじくことができます。「あの人が愛されているから」ではなく、「あの人も罪人だから」。これです。これを知れば、もはや劣等感に悩む必要はありません。

知識だけで嫉妬から解放されるわけではありませんが、知識も助けになると思います。