境界性パーソナリティ障害が問う〈答えのない問い〉

境界性パーソナリティ障害について調べた昔のメモをあさっていたら、リンク先の資料を見つけた。

何か心に残るものがあったので紹介することにする。この論文は、境界性パーソナリティ障害(BPD)の〈生きづらさ〉を人格やメンタリティといった個人の問題に還元しておしまいにするのではなく、私たちが生きる社会環境や社会規範のほうにも原因があるのではないかと問題提起している。いくつか引用すると次のような感じだ。

個人が「異常」だから〈生きづらさ〉を感じるのではなく、〈生きづらさ〉を誘引するような社会的規範が存在するのだと考えることができるのである。

 

たとえば、BPD患者について、自己と他者とが未分化であると言ったとき、当の私たちは、明確に分化し、責任ある主体としての自己を確立していると言えるだろうか。また、そうした主体を形成するような教育を受けてきたり、社会環境に置かれたことがあったりすると断言できる者は、いったいどれだけいるのだろうか。

 

私は、BPD ゆえの〈生きづらさ〉を、こうした言明によって相対化したいのではない。そうではなくて、責任ある主体としての自己を形成させないような教育や、その結果、社会と主体的にかかわりながら責任ある行動を取れないひとたちが集まっただけの「社会」において、なぜ BPD 患者だけがその性質を医療によって問題視されなければならないのか、ということである。

論文著者は「責任ある主体としての自己の確立」をすべての人に要求する現代社会を批判している。確かに今の社会はそういう要求をしているし、私たちはそれを自然と受け入れてしまっている。大人になるということは主体的に責任を引き受ける個人になるということだ。逆にそれができない人は「幼い」とか「未成熟」とか言われる。そういう成長観を特に疑問なく私たちは共有している。

パーソナリティ障害が「発見」されたのは20世紀のことだ。ということは、社会が個人に「責任ある主体としての自己」を求めるようになったのも、20世紀なのかもしれない。勝手な想像だが、「自立した個人」みたいな概念が18〜19世紀は知識人のあいだで共有されていたのが、20世紀になってから社会全体に広まったのではないだろうか。

それはともかく、論文著者はBPDの〈生きづらさ〉は今の社会に向けての問いかけであると考えておられるようだ。これは確かに言われてみればそうなのだか、勇気ある視点だと思った。自分の身に置き換えてみると、自分が何がしかの〈生きづらさ〉を感じたときにそれを自分の抱えている個人的な病気や性格だと考えて終わらせずに、社会への問いであると発想するのはなかなか勇気のいるものだと思う。いや、自分ではそういう発想になれないからこそ、他の人に「その〈生きづらさ〉は社会への問いかけなんだよ」と言ってもらうと、社会に問う勇気が与えられるかもしれない。

広げて思い巡らしてみると、〈生きづらさ〉だけでなく、生き方そのものが問いであるような人生を生きている人はたくさんいる。ヨブだってそうだ。ヨブは神に問うたけれども、その生きざまは今もあらゆる信仰者に問いを投げかけ続けている。義人は信仰に生きるし、また信仰によって問うてもいる。

BPDの人は問いの密度が高い。一緒にいるだけでさまざまな問いがぶつけられる。本人も答えのない問いを生きているが、周りの人たちを意図せず巻き込み、一緒に答えのない問いに引き込む。正しい答えは見つからないかもしれないが、問いと応答の回路を形成することができる。その回路が形成されるまで、門を叩く音がやむことはない。