祈りに応えがないときにどうやって神に信頼するか

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祈りに応えがないときにどうやって神を信頼するか。

これは何度でもぶつかる問題で、こうすればいいと一般化できるたぐいのものではないと思う。実存的な問題。その人ごと、その時ごとに違った結論に導かれるだろう。だから僕も、あたかも一般論を語るような口調で、きわめて個人的なことをこれから書こう。

神に何かを求めること、何かを期待することは正しいと教えられてきた。ペンテコステ派では、神に個人的願いを求めるよう励ますことが多い。「神に期待しましょう」という力強いメッセージで僕自身も何度も励まされたことがある。

だからこそペンテコステ派に属するクリスチャンはこういう悩みに直面しやすいと思う。

祈っても病気が癒やされないときにどうやって神を信頼するか。

祈っても問題の解決が与えられないときにどうやって神を信頼するか。

祈っても心の苦しみから解放されないときにどうやって神を信頼するか。

失敗経験は蓄積する。知らない間に認知に深い影響をおよぼす。

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この問いかけについて掘り下げてみよう。

この問いかけは、神との「個人的関係」に注目している。どうやって私は神に信頼するか。人間の側の視点だ。祈りが祈ったとおりには応えられなかったために、人間の側で信頼が傷つけられたように感じている。はじめ祈るときには信仰をもって求めるのだから、神を信頼している。ところが、祈ってしばらくしても何も起きない。あるいは悪化している。それで「祈ったが応えられなかった」ことを経験によって学習する。信頼が傷つけられたように感じるのも当然である。こういうところにも学習性無力はひそむ。

このような失意の内にある者を、人はいくらでも諭すことができる。非難の色を込めて言える。いわく、結果は神のみこころのままになるのだから、神にゆだねるべきである。あなたの小さな個人的願いを聞き入れるほど神は暇ではない。あるいは、祈りがかなえられなかったことにこそ人には計り知れない大きな意味があるのだ。あるいは、いつも失望しないで祈りなさいと聖書に書いてあるではないか。

このような言葉はどれも正しい。正しいからこそ、失望は深まる。

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ほしいのは人からの励ましの言葉ではなく、神との信頼関係の回復だ。ふたたび神を信頼できるようになり、あのいのちの湧きいづる関係の中に入ることだ。

神はイエス・キリストを通して私と関係を結んでくださった方だ。神は機械ではない。道具でもない。概念でも法則でもない。

どんなふうにして、取りに足りない罪人の私と関係を結んでくださったのか。イエス・キリストが十字架にかかり、死んでよみがえったことによって。そうだ。その真実が私のうちに生きていることを私は知っている。

そこに、そのことだけに満足すべきだろうか。いくつかの思いた通りにならなかった出来事、祈っても解決せずそのまま続いている問題をわきに置いて。セオリー通り、十字架を見上げればよいのだろうか。

いや、正直になろう。僕は、この信頼関係の傷を神に直接取り扱ってほしいと願っている。傷ついたらそれを隠すのではなく、差し出すのだ。

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自分だけの問題ではない。キリストの共同体の問題でもある。肢体の一部分が傷ついたら全体が痛むのだから。

一般化できる問題ではないと最初に書いたが、こっそりと一般化しておく。

信仰生活に問題が起きたら共同体に転嫁するという手がある。共同体にも問題を差し出す。神との個人的関係に傷ついたら、神と教会との共同体的関係に帰ろう。

それで何かが解決するだろうか。わからない。共同体も問題だらけだ。共同体の中でもまた別のことで傷つく。信頼できる人もいないかもしれない。所属教会もないかもしれない。それでもいい。

「私」の問題から「私たち」の問題へ。「私たち」の歴史に乗っかって、同じ告白をして、同じ神を礼拝する。

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祈りに応えがないときに私たちはどうやって神を信頼するか。

祈りに応えがないときに私たちはどうやって神に信頼してきたか。