ルター『大教理問答』に見る敵を愛さない罪

ルターは『大教理問答』(1529年)で、敵を愛さない罪について語っている。正確に言うと、「敵を愛さない罪」という表現は出てこないし、直接的に言及しているわけでもないが、その概念が明らかにある。

『大教理問答』は素晴らしい説教だ。堅苦しいタイトルとは裏腹に、この説教は「子供たちや単純な人たち」のために書かれた。語り口はわかりやすく、父が優しく子を諭すようである。この記事では、第一部「十戒について」を紹介したい。

プロテスタントで福音が語られるとき、伝統的に次のような順序で組み立てられることがしばしばある。

  1. 罪人(つみびと)の自覚
  2. 罪からの救い

私たちは罪人である。そして私たちを罪からの救ってくださる方がイエス・キリストである。逆に言うと、私たちが罪人であるという自覚がなければ、罪から救い出してくださるキリストに頼る必要もない。だから、敬虔なクリスチャンとは、自分が罪人であると深く知っている者にほかならない。罪人の自覚はキリストと私との関係の出発点である。熱心に善行に励むことも、礼拝を忠実に守ることも、それらは確かに善いことであるにしても、いのちの出発点にならない。

このようなプロテスタントの福音観が、ルターから始まったのかどうかは知らない。が、ルターの『大教理問答』にはそれが色濃く現れている。「十戒について」は読者の手を取って罪人の自覚へと導く。ルターは十戒を捨てなかった。福音の光のもとで照らし、形式的な文字の律法ではなく、完全な自由の律法として再解釈している。「なんじ、殺すなかれ」は消極的に殺人行為を禁ずるのではなく、隣人を愛すべしという積極的な戒めへと拡張されている。

十戒の内容に入る前に、罪人の自覚についていくつか確認したい。

第一に、罪人の自覚は人間が自力で持てるものでもないし、他人の指摘によるのでもない。それは、ある独特の仕方で、神が導くものである。聖霊によらなければ聖書のメッセージを本当には受け取れないのと同じ意味で、聖霊によらなければ罪人の自覚に至ることはない。「あなたは罪人であることを知りなさい」と壇上から指差して言う人がいたとしても、そこに聖霊の働きがなければ、ただ不可解で不快な発言として受け取られるか、せいぜい肉的な罪悪感を持たせるだけである。

牧師の説教でも、罪人の自覚へと導くメッセージは非常に難易度が高いと思う。人は罪人の自覚へと導かれるとき、文字通り、みことばの剣で魂が刺し貫かれる。そこには痛みが伴う。そのような説教をするのがなぜ難しいのかというと、痛みの伴う言葉を語るのに勇気がいるというだけではなく、逆に痛みの伴う言葉を語りたいという人間的な欲求、つまり誘惑があるからでもある。人を責め、罪を宣告することの快感は、堕罪以後すべての人間が持っている、「神のようになりたい」という欲望のバリエーションだからだ。そうした誘惑を退け、あるいはそうした誘惑と無関係な場所に立って、罪人の自覚を語らなければならない。これは語る者にとっても試練である。

第二に、罪人の自覚は、希望ある出来事だという点。確かに痛みはあるけれど、自覚を持つ以前には人は実のところもっと痛んでいたのである。自分が苦しんでいるのに、その苦しみにしばらく気づかずにいる、という経験をお持ちではないだろうか。苦しみに気づいたとたんに、過去の自分が苦しみ続けていたという事実を知る。ある真実を自覚した瞬間に、過去のすべてが塗り替えられ、新しい意味を帯びるような、そういう種類の真実がある。罪人の自覚はその一つだ。長年の原因不明の病人が、ついにその病名を知る時のように、それは希望の出来事である。病名を知った後に必要なことは、それを治療できる医者を探すことである。

さて、十戒に入ろう。

ルターは「なんじ、殺すなかれ」という戒めの前提に、この世が悪の世であることを置く。引用していこう。

「この戒めの理由と必要性とは、この世は悪しく、この世の生活には多くの不幸があることを神がよく知っておられるということである」

この世が悪であるからこそ、私たちは隣人を殺したくなるというのである。隣人が私たちに危害を加えるからこそ、私たちは敵意を持つ。あるがままの自然な気持ちとしての敵意を。

ルターは続けて、戒めを拡張する。禁じられているのは物理的な殺人だけではない。「この戒めは、何人も隣人に対して、たとい彼が充分それに価するにしても、いかなる害も加えてはならないことを意味する」。

「第一に、手あるいは動作をもって何人をも害しないこと。次に、舌をもって、害を加えることを示唆したり、進言しないこと。さらに、何人かが苦しみを受けるような手段あるいは方法を用いたり、賛同しないこと。また最後に、何人に対しても、悪意をいだいたり、怒りや憎しみから、悪を喜ぶことをしない」

明らかに、この言葉は第一コリント13章の愛の掟と結びついている。愛は、不義を喜ばず、真理を喜ぶ。

さらにルターは続ける。

「第二に、隣人に対して悪を行う者だけが、この戒めの背反者ではなく、隣人に善を行い、彼に、身体上の災厄あるいは害が、起らないように先手をうち、防止し、防衛し、また救うことができる者が、それをしないことも同罪である。それゆえに、着物を与えることができるのに、裸である者を、去らせるならば、その人を凍死させることになる。飢える者を見て、彼に食を与えないなら、彼を、餓死させることになる」

なんということか。隣人に善を行う力を持ちながら、それを差し控えることは「なんじ、殺すなかれ」という戒めを破っているというのである。

「苦境におちいり、また身体と生命の危険にある者に忠言や助けを与えない者をみな、神は殺人者とよび、最後の日に、彼らの上に最もおそるべき宣告を与えたもう」

ルターはここで、苦境に陥っている者が私たちの敵である可能性を示唆している。

「災害が何人にもふりかからないようにし、何人にも、あらゆる善と愛とを示すことが、神の最終の目標である。またこれは、われらの敵に対して特別に関係をもつのである。」

つまるところ、ルターによれば「なんじ、殺すなかれ」とは、「なんじの隣人を愛せ。特になんじの敵を。」なのである。敵を愛さない罪とは、人を殺す罪そのもののことだ。

あまりにも、厳しい。誰もクリアできない基準だ。重すぎるくびきではないか。そう言いたくもなる。「あなたは敵を愛さないという罪を犯している!」と人から言われれば、うろたえるほかない。

ところが、本当はこの話は、クリスチャンには感覚的にはよくわかるはずだ。なぜならば、クリスチャンにとって善悪の究極的な基準は、主イエスにあるからだ。

罪とは何か。主イエスという模範から外れることが罪である。主イエスのなさらなかったことをするのは罪であり、また主イエスがなさったことをしないのは罪である。主イエスは敵を愛した。だから、敵を愛さないことは罪となる。主イエスの十字架を目前に逃げ出したペテロを私たちが思い出し、彼と自分自身とを重ね合わせるとき、私たちが罪人であることが心の中にあらわにされる。私たちが厳しい迫害に耐えられないときばかりでなく、私たちが敵を愛さないときにも、あのペテロと重ね合わされるのである。

厳しいだろうか。もしここまでをお読みになって、あなたが窮屈で縛られているような気持ちになったとしたら、この文章は失敗である。あるいは雲をつかむような話だったかもしれない。その場合にも、この文章は失敗である。指差されて「あなたは罪人だ」と責められた気持ちになったとしても、この文章は失敗である。

本当は、敵を愛してくださる方との出会いがなければ、敵を愛さない罪はわからない。パラドキシカルではないか。主イエスを知るためには罪人の自覚がなければならないが、主イエスを知らなければ罪人の自覚には導かれない。すべてはそもそも上から来ている恵みであって、人を救う動機も方法も実現力も神の側にあるということを再確認する。