苦しみの意味の扉が開かれるとき

ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われ、半殺しの目にあった。そこにクリスチャンが通りかかり、「あなたの苦しみには意味があります。神に目を留めていなさい」と言い、去って行った。

これはサマリヤ人のたとえをもじったただの皮肉だが、苦しみの意味について取り扱うときの、避けて通れない問題をよく表している。すなわち、他人があなたの苦しみの意味を教えることができるのかという問題である。

苦痛を味わうとは孤独な仕事だ。他人が肩代わりすることもできず、終わりがあるかどうかもわからないトンネルの中をひとりで歩くしかない。ときおり、別のトンネルを歩く他人が、その人固有のトンネル体験に基づいて、慰めの言葉をかけてくれるかもしれない。それでも、またひとりで歩かなければいけない。

他人が私の苦痛を味わうことはないという単純な事実が、それ自体はごく平凡ながらも、他人が私の苦痛の意味を知ることはないというもうひとつの単純な事実を教えてくれる。痛みというテクストは、じかに触れることによってしか読めない。だから冒頭のクリスチャンの台詞「あなたの苦しみには意味があります」が、どこかしらじらしく、知ったかぶっているように見える。

そうはいっても、苦しみの意味の内容はわからないとしても、苦しみの意味の存在は他人が教えてあげられるのではないか。いや、それは思い上がりだ。たいていの場合、苦しみの意味を教えてさしあげようとする善意の人は、自分で相手を殴りつけながら「この痛みに意味があるのです」と言っているだけだ。