神の愛と永遠の責め苦についての対話

A「長くても100年程度の人生で犯した罪のせいで、死後に地獄に行って永遠の責め苦を受けるのって理不尽じゃない?」

B「どうしてそう思った?」

A「だって、神は愛なんでしょ。それなのに、有限な人生の中で犯した罪の罰として、永遠に苦しみを与えるのは矛盾してると思った」

B「なるほど。罪の裁きとしての永遠の責め苦が、神の愛という性質と矛盾しているというわけか。何を問題としているかは理解した」

A「それで、どう思う?」

B「うーん、矛盾していると思ってしまうのは、人間の側で愛を定義していることに原因があるね。神は愛そのものである。ということは、愛が何であるかを知っているのは、究極的には神しかいない。だから、罪の裁きとしての永遠の責め苦が、愛なのか愛に反するのかを判断することができる者は、権利上、神しかいないよね。愛の基準は神にあるとすれば、人間の側で、神に対してこれをしたら愛がないとか判断する権利はないのだよ。」

A「うん、まあわかる。でも、ちょっと待って。人間の側で神の行為に対してそれが愛であると感じる感性が与えられていなければ、人間を作った意味がないよね。ほら、人間は神に似せて造られているし、少なくとも御子イエス・キリストを通じて人間は神の愛を知ることができるんでしょ」

B「ふーむ。つまりこういうことか。もし、神の愛と人間の考える愛がかけ離れていて、人間にとって理解できないほどであるとすれば、イエス・キリストを通じた神の愛の啓示も人間は理解できなかったはずである、と」

A「そういうこと。確かに、われわれは神の愛の高さ、広さ、長さ、深さを完全に知ることはできないんだけど、神がご自分の愛を人間に現される限りにおいて、その愛を受け取ることができる程度には、神の愛を理解できるように造られているはずだよね」

B「それはそうだ。同意」

A「ところが、永遠の責め苦は、そうやって人間が推察できる愛の直観からはまったく届かない。だって、悔い改めの機会に関して地上でのチャンスだけを与えていて、そのほんのわずかな救いキャンペーン期間を逃した人は残念ながら永遠に苦しむっていうシステムでしょ。普通に考えてどこが愛だよ、って感じるよ」

B「それは、私の愛の直観とあなたの愛の直観が違うんですねとしか言いようがないんじゃ…」

A「そこを相対化しちゃっていいの?」

B「相対化してはいけないね。考えてみよう。そうだな。まず、神の愛は、人間の〈肉〉からは理解できないものだということを確認しとこう。〈肉〉とは、人間の生まれながらの性質のことだ。で、イエスは『汝の敵を愛せよ』と言われたよね。でも、敵を愛する愛なんてものは、〈肉〉の感覚ではあり得ない。〈肉〉の愛は、愛着感情がベースになっているので、基本的に好きな人を愛する愛なんだ。パウロも言っているよね。『義人のためにならあるいは死ぬ人もいるでしょう。』でも、神の愛は違う。敵をも愛する愛だ。人間がまだ罪人で、神の敵であるうちに、人間のために十字架にかかって死んでくださった。これは〈肉〉の愛からは理解できないどころか、それに反するものでさえある。」

A「わかる」

B「で、そうした神の愛が理解できるようになるためには、〈肉〉ではなく〈霊〉によらなければならないよね。ざっくり言うと、神の愛を理解できる理解力や感受性さえも、神によって新たに与えられなければならない。」

A「その議論自体はわかる。でも、今の議論ではその〈霊〉とやらで神の愛が心から理解できる必要はないんじゃないかな。だって、神の愛がどういう性質のものであるかは、すでに聖書に書かれているでしょ。神の愛は『敵を愛する』という性質を持っている。それを感覚的には理解できなくても、議論はできるでしょ」

B「それは君が、永遠の責め苦を与えるような愛は人間には理解できないって言ったからだよ。形式的にではなく、心から理解できるかどうかが問題になっているんでしょ」

A「うーん、確かに。でもなあ、なにかずるい気がする。だってその議論に乗っかると、こう言えるじゃん。愛の基準は神にある。そして、愛を理解できる感受性も神から与えられなければならない。そうすると、永遠の責め苦を与えるような神の性質も愛に属するとして、そのような愛が理解できないのだとしたら、それはあなたに愛の感受性が与えられていないからである。……ずるい」

B「確かにそういうふうに持っていけるね。で、ずるいと感じる理由は、反論がしにくいからかな」

A「うん、反論の口を封じているよね。何を言っても、お前に理解力が与えられていないのだって言われる。」