ラディカル・オーソドキシーとは何か

http://www.unifr.ch/theo/assets/files/SA2015/Theses_EN.pdf より、抄訳)

ジョン・ミルバンクは「ラディカル・オーソドキシー」運動の礎を築いた一人である。ミルバンクはこの運動を七つの点に要約している。

(一) ラディカル・オーソドキシーは理性と信仰の分断を否認する。それは現代の逸脱であるとみなしている。人間を完全に知るためには神の啓示が不可欠である。

(二) 世界を完全に理解するためにも、神の参与という視点が不可欠である。部分的ではあるものの恵みによって回復されつつあるこの世界が、神の性質を明らかにしている。

(三) より現代的な視点として、文化、言語、歴史、自然を扱う技術もこの神の参与に属している。そういう領域は真理と無関係に人間が作り上げたものではない。人間の poesis (詩)は神の verbum (ことば)なる神の御子に参与している。同様に、人間の社会的交流は神の donum (賜物)なる聖霊に参与している。この二つの参与のプロセスが自然をより自然らしくする。

(四) 神学は神と人との協働であり、しかも完全に神のわざでもある。神について思考する試みは、人間のなしうる最高の働きの座にふさわしく、それ自体が典礼である。

(五) ラディカル・オーソドキシーはポストモダン思想に影響を受けているが、同時に反論もしている。ポストモダン思想では、我々が立てる確固たる真理の土台は存在せず、真理などというものは存在しないということだけが唯一の真理だとしている。ラディカル・オーソドキシーも真理の土台がないことを認め、確かさを有限の我々に求めることはできないとしている。しかし、その状況は永遠に目を向ける必要性として読むべきである。無限の神性においてのみ、真理の直観がありうる。我々は信仰の行動によって無限の真理に参与できるゆえに、真理は可能である。堕落によって、人間は自分たちだけの真理を打ち立てた。これが合理主義が悪である理由である。だが、神ご自身が降りてこられ、神ご自身が真理となった。

(六) 神なしには心的なものの価値が認められない。生よりも死がリアルであるため、肉体は空洞化され、心なき肉体こそが現実とならざるをえない。超越を信じること、超越への参与を信じることだけが、現実のあり方と肉体を救う。肉体を超越する神だけが、肉体をより肉体らしくする。ラディカル・オーソドキシーは肉体の価値を主張している。肉体、セクシュアリティ、五感、感情の価値を見直している。

(七) ラディカル・オーソドキシーにとって、神に対する垂直的な参与は、人と自然、また人と人の関係に参与することでもある。それゆえ、救いは宇宙的なものであると同時に共同体的なものでもあるとみなしている。神学は、人間と自然界が調和し、美しく相互作用する状態を目指すことを、神との協働として行うことを奨励する。また、民主的な政治参加と社会主義的な共有をも、神との協働として行うことを奨励する。教会は、人間社会と宇宙か完全に実現された来るべき王国の前触れである。