刈り取りの法則を境界線思考に適用することはキリスト教的なのか

ヘンリー・クラウド他『境界線』についての話題。

境界線思考では、刈り取りの法則を適用して、悪を行なった人の責任はその人に帰すべきであるとしている。たとえばアルコール依存で暴れる人がいるとして、周りの家族がその人の暴力・暴言に耐えるのは刈り取りの法則からすると不当であり、その人と距離を置くことによって「暴力」という罪の結果をその人自身に負わせることこそが愛なのだ、としている。

説得力はあるが、ここで疑問を付したい。刈り取りの法則をこのように適用することは聖書的、あるいはキリスト教的なのか。

第一に、神は刈り取りの法則ではなく恵みの法則によって人間を贖った。刈り取りの法則はむしろ律法の法則に属するもので、それだからこそ無視できない重要性があるが、しかし律法はキリスト教の救済にとって養育係であることを忘れてはいけない。もし神が、徹頭徹尾刈り取りの法則によってのみ人間を取り扱われるとすれば、十字架の贖罪はありえない。なぜなら、十字架の贖罪は神が人の罪を〈背負う〉ことによって達せられたからである。だから、神は刈り取りの法則によってのみ人間を取り扱われるというのは間違いである。

第二に、刈り取りの法則は究極的に神の裁きに任せることが人間の義務であることを考えると、「その人の罪の行為の結果をその人に負わせる」ことを能動的に行うのは、刈り取りの法則の適用ではない。ステファノは迫害されたとき、迫害する者の悪を本人に背負わせようと能動的に行動しただろうか。迫害する者のために祈りとりなしたではないか。悪に対して線引きすることは必要ではあるが、それは刈り取りの法則の適用ではない。人間が介入すべき法則ではないからだ。

しかしこれでは、愛ゆえに理不尽に耐えよ、それがキリスト教的だ、と言っているようではないか。いや、それも違う。というよりは、〈理不尽〉の内容による。正しくは、愛ゆえに私たちは何に耐えるべきか、と問わなければならない。忍耐強い愛の真実はどこまで、どのように、どれくらいなのか。人間の目に理不尽なこともあろう。距離を取ることが愛であることもあろう。難しい問題であることは確かだ。