【注意喚起】RAPTの人

結論から言うとRAPTの人は統一教会系の宗教である可能性が高いです。統一教会から派生した新興宗教はたくさんあり、日本にも「摂理」という新興宗教が入ってきたことがありますが、RAPTはそのうちのひとつでしょう。以下、その理由です。

◎ 用語

統一教会用語をよく使っています。「堕落」、「中心者」、「御言葉の宣布」なんかは統一教会の頻出ワードです。そして、わかりやすいのが「霊界と地上界の授受作用」という用語です。

霊界と地上界の授受作用 http://rapt-neo.com/?p=20258

「授受作用」は統一教会が発明した専門用語です。こういう用語をぽろっと使ってしまっているので、統一教会「系」の宗教である可能性が高まります。

◎ 異端的教理

メッセージをきいて気になった点があります。

・悔い改めときよめを強調するが、十字架と復活が出てこない ・キリストのきよさは神のきよさに及ばない

この二点は、本気でそれを言っているなら異端です。

統一教会っぽい教理

統一教会っぽい教理もあります。

① アダムとエバの堕落を性的な罪と結びつけている

統一教会では、アダムとエバの堕落は実は悪魔との性交だったとしています。だから男女間の性的な罪は他の罪よりも重く、決してゆるされない、と教えています。

RAPTでは、堕落は性交だったと明言はしていませんが、男女間の性的な罪は他のどの罪よりも重いとしており、中心者に罪の告白をしないとゆるされないと教えています。また、性的な罪をアダムとエバの堕落に結びつけて理解しています。

バプテスマのヨハネの本当の使命に言及している

去年の記事ですが、 http://rapt-neo.com/?p=34861 この記事はバプテスマのヨハネについて書いています。導入の仕方が統一教会の教理とよく似ています。まだこの記事は読んでいませんが、もし統一教会を真似していれば、「バプテスマのヨハネはエリヤの使命を持っていたが、嫉妬によりイエスを受け入れられず、使命を失敗した」と続くはずです。

③ キリストの復活の否定

極めつけはこれ。 http://rapt-neo.com/?p=26085

キリストが肉体において復活したことを否定し、「本当は霊体が復活したのだ」と主張しています。

霊体が復活したという説は、そのまんま統一教会の教理です。(なお、細かいことを言うと「霊体」という用語は統一教会よりも「摂理」のほうが近いかもしれない)

探せば他にもザクザクと出てきそう。だいたい統一教会の教理を借りてきたと見て間違いないでしょう。

◎ 結論

最初は、「過激なことを言って行き過ぎちゃった人」かと思っていましたが、メッセージを聞いてブログを読んでみたら、考えが変わりました。

彼は、「普通の異端の人」ですね。しかも統一教会の教理に非常に近い。

オリゲネス『諸原理について』3:6:5

5. The last enemy, moreover, who is called death, is said on this account to be destroyed, that there may not be anything left of a mournful kind when death does not exist, nor anything that is adverse when there is no enemy.

こういうわけで、さらに、最後の敵である死は滅ぼされると言われている。その結果、死が存在しなくなるときに悲しみのもとは何も残らず、敵がいなくなるときに反逆するものがなくなる。

The destruction of the last enemy, indeed, is to be understood, not as if its substance, which was formed by God, is to perish, but because its mind and hostile will, which came not from God, but from itself, are to be destroyed.

最後の敵の滅びは、実際には、その実体――これは神によって形作られた――が滅ぼされるかのように理解すべきではなく、その精神と敵意――これは神からではなく敵自身から来たのである――が滅ぼされると理解すべきである。

Its destruction, therefore, will not be its non-existence, but its ceasing to be an enemy, and (to be) death.

しがたって、その破滅は、それが非存在になるというのではなく、それが敵や死であることをやめるこということである。

For nothing is impossible to the Omnipotent, nor is anything incapable of restoration to its Creator: for He made all things that they might exist, and those things which were made for existence cannot cease to be.

なぜなら、全能者とって不可能はなく、創造主にとって回復できないものはないからだ。神は万物を存在するように創造したのだから、存在の与えられているものが存在をやめることはでいない。

For this reason also will they admit of change and variety, so as to be placed, according to their merits, either in a better or worse position; but no destruction of substance can befall those things which were created by God for the purpose of permanent existence.

こういうわけで、万物は、自分の功徳に応じて、あたかもより良い場所やより悪い場所に置かれるように、変化したり変性したりする可能性はある。

For those things which agreeably to the common opinion are believed to perish, the nature either of our faith or of the truth will not permit us to suppose to be destroyed.

多くの人の意見によるとこれらのものは滅びると信じられているが、私たちの信仰の性質や真理の性質は、これらのものが滅ぼされると考えることを私たちに許可しない。

Finally, our flesh is supposed by ignorant men and unbelievers to be destroyed after death, in such a degree that it retains no relic at all of its former substance.

最後に、無知な者や不信者が信じているところによると、私たちの肉は死後、完全に滅ぼされて、以前の実体の残りかすもなくなるという。

We, however, who believe in its resurrection, understand that a change only has been produced by death, but that its substance certainly remains;

しかし、私たち復活を信じる者は、死によってもたらされるのは変化だけであって、実体は確かに残っているのだと理解している。

and that by the will of its Creator, and at the time appointed, it will be restored to life;

また、創造主のみこころによって、定められた時に、体はいのちを取り戻すということ、

and that a second time a change will take place in it, so that what at first was flesh (formed) out of earthly soil, and was afterwards dissolved by death, and again reduced to dust and ashes ("For dust thou art," it is said, "and to dust shall thou return"), will be again raised from the earth, and shall after this, according to the merits of the indwelling soul, advance to the glory of a spiritual body.

また、二度目には変化が体に起こり、一度目には地の土から作られた肉が、後には死によってばらばらになり、ちりと灰に帰って(「あなたはちりであるから、ちりに帰る」と言われている)、地からもう一度よみがえり、その後、内在する魂の功徳に応じて、霊の体の栄光へと進むということを、私たちは理解している。

もとの英文: http://www.earlychristianwritings.com/text/origen124.html

苦しみの意味の扉が開かれるとき

ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われ、半殺しの目にあった。そこにクリスチャンが通りかかり、「あなたの苦しみには意味があります。神に目を留めていなさい」と言い、去って行った。

これはサマリヤ人のたとえをもじったただの皮肉だが、苦しみの意味について取り扱うときの、避けて通れない問題をよく表している。すなわち、他人があなたの苦しみの意味を教えることができるのかという問題である。

苦痛を味わうとは孤独な仕事だ。他人が肩代わりすることもできず、終わりがあるかどうかもわからないトンネルの中をひとりで歩くしかない。ときおり、別のトンネルを歩く他人が、その人固有のトンネル体験に基づいて、慰めの言葉をかけてくれるかもしれない。それでも、またひとりで歩かなければいけない。

他人が私の苦痛を味わうことはないという単純な事実が、それ自体はごく平凡ながらも、他人が私の苦痛の意味を知ることはないというもうひとつの単純な事実を教えてくれる。痛みというテクストは、じかに触れることによってしか読めない。だから冒頭のクリスチャンの台詞「あなたの苦しみには意味があります」が、どこかしらじらしく、知ったかぶっているように見える。

そうはいっても、苦しみの意味の内容はわからないとしても、苦しみの意味の存在は他人が教えてあげられるのではないか。いや、それは思い上がりだ。たいていの場合、苦しみの意味を教えてさしあげようとする善意の人は、自分で相手を殴りつけながら「この痛みに意味があるのです」と言っているだけだ。