ヨブ記読書ノート

ヨブ記 13:2

あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。わたしはあなたがたに劣らない。

友人たちに諭されるヨブ。しかし、ヨブには慰めにも励ましにも悟りにもならなかった。

悩んでいる者への善意のアドバイスは、ときどき煩い。そんなことは言われなくてもわかっている、改めて他人から言われるまでもない、と言いたくなるような。ヨブもそうだった。「あなたがたの知っていることは私も知っている」。

だが、友人たちの親身で迷惑なアドバイスは無意味だったのではない。友人たちの意図とは別に、ヨブをある自覚へと促した。「私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい」。ヨブの疑問は神に直接向かっていた。友人たちとの議論を通じて、さまざまな感情と疑念と欲求が、神と直接対面したいという願いに収斂していることに気付き始めた。

神がいるならどうしてこの世に不幸があるのか。神がいるならどうして私は不幸なのか。神義論である。一般的な神議論はそういうものだが、ヨブの神議論には見逃せない重要な点がある。この神義論を誰に問うのか。ヨブは神に問いたかった。神義論を神に問う。これは神義論の必然的な行き先である。神義論は、誰か他の人に胸ぐらつかんで問いただすことのできるような問いではない。自分の頭で考えぬいて折り合いをつけるような問いでもない。それを真剣に問うならば、神に向かって問うほかはない。


ヨブ記 13:21

あなたの手をわたしから離してください。あなたの恐るべき事をもってわたしを恐れさせないでください。

ヨブは自分に降りかかる災いを神の御手によるものと信じた。ヨブ記の序章で読者が知らされる舞台裏によると、神とサタンがやり取りを行い、ヨブに災いを送ることを神が許可したのだが、ヨブはそんなことは知らない。ヨブにとってこの災いは「神の許可」よりもっと能動的な意味において、神からのものだった。

神の手による苦しみ。神の手が私の上にあり、その手がずっしりと重く、それゆえにこの苦しみがあるのだ。

この箇所は、ヨブが神との議論を求め、神に対面して直接申し上げたいことがある、と友人たちに言って、それから神に向かって祈り始めるパートである。議論したいと言いながらも、あくまでヨブはへりくだり、自分が何者であるかをわきまえていた。ヨブは今も神に信頼している。

神の手が身におおいかぶさるという苦しみの表現は、どんな状況にあっても神が主権者であることを物語っている。理不尽な苦しみは神が「許可」したのかもしれないが、それは同時に能動的な意味での神の「御手のわざ」なのである。この事実に胸が熱くなる。神は何かを仕方なしに許可したり、やむをえずに流されて仕方なしに決定するようなお方ではない。生きることも死ぬことも病も苦しみも、まぎれもなく、文字通りの意味で、神の御手の中で起きている。神により生かされ、神により死ぬ。これが義人ヨブの信仰ではないか。


ヨブ記 13:25

あなたは吹き回される木の葉をおどし、干あがったもみがらを追われるのか。

神と人、創造者と被造物。なぜ絶対的な違いのあるのに神が人を顧みるのか。

神がどういうみこころでそうされるのかはわからないが、少なくとも人間の目から見るとき、神が「木の葉をおどし」「わらを追う」ように見えることがある。どうしてこんなに取るに足りない人間を、こんなに顧みて苦しめるのか。ヨブの洞察は深い。


ヨブ記 14:22

ただおのが身に痛みを覚え、おのれのために嘆くのみである」。

新改訳「ただ、彼は自分の肉の痛みを覚え、そのたましいは自分のために嘆くだけです。」

苦しみが無意味に見える理由のひとつは、ここでヨブが言っているように、苦しみのさなかにある人は自分の苦しみのために嘆くことしかできないということだ。苦しみを通過し終えたなら、同じ境遇にある人に自然とあわれみを感じるかもしれない。だが、極度の痛み・苦しみのさなかにあっては、似たような苦しみを味わっている人にさえ恨めしいような嫉妬するような思いになる。

ヨブにはそのことがよくわかっていた。周りには誰も自分以上に苦しんでいる者はいないと思われた。ある時には、苦しみというものは無表情であるばかりでなく、我々から意味を奪っていくように感じられる。ヨブはこのようにして延々と人間について語る。人間の本質を語り続ける。ヨブ記がもし仮に人間の手による創作に過ぎないとしたら、紀元前にすでに人間の苦しみの本質を書ききっていることにただ驚くばかりだ。


ヨブ記 16:19-21

見よ、今でもわたしの証人は天にある。わたしのために保証してくれる者は高い所にある。

ヨブ記16:19-21にはキリストの予型を見出せる。新改訳は21節をこう訳している。「その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。」

友にさえ裏切られて孤独の極みにあるヨブの目は神に向かい、神と人とのあいだに立ってくださる方を求めた。人の視点からすると、神と人とのあいだに立つ方は是が非でも必要である。神とヨブのあいだには壮絶な「見解の相違」があるので、あいだに立ってすり合わせを行ってくれる方がーーキリストがーー必要なのである。


ヨブ記 20:3

わたしはわたしをはずかしめる非難を聞く、しかし、わたしの悟りの霊がわたしに答えさせる。

友人ゾパルはヨブの言い分に我慢がならなかった。ヨブの正直な苦しみの吐露を聞いているうちに、いらだち、胸騒ぎがし、侮辱されたように感じた。そして自分の気持ちに収まりをつけるためにヨブをこき下ろす。お前が悪人だからこうなったのだ。悪人は糞のように滅びることになっている。

よくあることだ。苦しみの当事者ではなく、その悩みを聞いた第三者のほうが怒りだす。善人が報いを受け、悪人が罰せられるべきであるという世界公正信念の持ち主は、善人が苦しんでいるという事実を受け入れられない。そういう人にとって、世界は理不尽であってはならない。だからヨブを責めずにはいられない。お前が苦しんでいるのはお前が悪いことをしたからだ、と。


ヨブ記 21:7

なにゆえ悪しき人が生きながらえ、老齢に達し、かつ力強くなるのか。

ヨブの反論である。友人が、悪者がどんな報いを神から受けるのかを言葉を尽くして語ったことに対して、ヨブは言う。悪者のほうがむしろ生きながらえ、富み栄え、友人も多く、墓も立派ではないか。ヨブは神義論に新たな視点を加える。それまではなぜ義人が苦しむのかだったが、ここではなぜ悪人が栄えるのかを問うている。

なぜ悪人が栄えるのか。なぜ悪人のほうが栄えるのか。どうしようもなく、紀元前からの真実である。ヨブの激しい苦悶は5節にもありありと現れている。ほら、私を見よ。私を見て驚け。私はこのありさまなのに、なぜ神をあなどる悪人が栄えるのか。

私たちはこの物語の結末を知っている。ちょうど終末に神ご自身が来られて報いと裁きを行われるように、この物語の最後には神ご自身が来られる。だが、今はこのヨブの苦しみの瞬間を切り取りたい。物語を俯瞰した視点からではなく、苦しみにあえぐヨブの瞬間を。なぜ悪人が栄えるのか。


ヨブ記 22:21

あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。

友人エリパズによる諭し。21節から30節まで。神の前にへりくだって、神とのあいだに平和を得よ。この諭しはまったく正しい。

もしこの諭しが箴言や伝道の書に書いてあることばだったら、霊を養う有益な諭しだったろう。しかし、ヨブとの対話の中で現れたこの諭しには、どこかしらじらしさがある。結局はほかの友人たちと同じように、正論を振りかざして苦しめる者に立つ瀬をなくす叱責になっている。

ヨブはこの諭しを聞いて、ますますかたくなになった。この諭しそのものよりも、諭しを聞いたヨブの反応のほうに豊かな真理がある。ヨブはかたくなになった。苦しみのもうひとつの、あまり注目されていない影響力がここに現れている。

極度の苦しみは、人をかたくなにさせる。苦しみは、友人の善意のアドバイスを悪意に解釈させるようになる。苦しみは、神のあわれみを拒むようにしむける。苦しみは、孤独な者をますます孤立させ、閉じこもる者をますます奥に閉じ込める。

何も良いことがないように見える。苦しみは、人を苦しめるばかりでなく神と人からも遠ざけるのだろうか。いや、そうではない。これは福音の前兆である。救いがまもなくやってくる。

かたくなの先にあるものは何か。私たちは知っている。「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれた。」人は自分の力で悔い改めたり神にへりくだったりすることはできない。神を遠ざけ、自分から絶望の淵にとどまろうとするかたくなさの極みにあって、神の最終的な救いが突如として来る。十字架による救いとはそういうものであろう。


ヨブ記 23:7

かしこでは正しい人は彼と言い争うことができる。そうすれば、わたしはわたしをさばく者から永久に救われるであろう。

16:19「天の保証人」の主題を発展させているように見える。天で神と論じ合える者は「正しい者」であり、その方が私を弁護してくださるはずだ、という仲介者に対する信頼がある。


ヨブ記 23:13

しかし彼は変ることはない。だれが彼をひるがえすことができようか。彼はその心の欲するところを行われるのだ。

神はみこころの欲するところを行われる。ヨハネ3:8でキリストが御霊について言われたことばのようだ。神のみこころは変えられない。みこころのとおりに行われる。神は私について定めたことを成し遂げられる。と、ヨブは言う。神は、私が闇に葬られて地上から退場するよう定めたのではなく、苦しみながらも生きるよう定めたのだ、と。このように生きなければならないこと、生かされていること、生きざるをえないことの中に、神のみこころが現れている、と。


ヨブ記 26:4

あなたはだれの助けによって言葉をだしたのか。あなたから出たのはだれの霊なのか。

新改訳では「あなたはだれに対してことばを告げているのか。だれの息があなたから出たのか。」

ヨブは言う。あなたの言葉は誰に対して言っているのか。〈誰に対して〉に鋭い真理がある。先の友人の言葉もそうだ。言っていることは正しい。だが、〈誰に対して〉言っているのか。


ヨブ記 30:21

あなたは変って、わたしに無情な者となり、み手の力をもってわたしを攻め悩まされる。

新改訳では「あなたは、私にとって、残酷な方に変わられ、御手の力で、私を攻めたてられます。」 神が変わってしまったような感じ。変わらないお方であるはずの神が、無情で残酷な方に見えた。私たちもよくつらいときに「神は残酷だ」とつぶやくが、ヨブはこれを神ご自身に向かって言った。あなたは残酷な方です、という祈り。


ヨブ記 32:2

その時ラム族のブズびとバラケルの子エリフは怒りを起した。すなわちヨブが神よりも自分の正しいことを主張するので、彼はヨブに向かって怒りを起した。

ヨブの物語の最後の曲がり角である。若者エリフが口を開く。物語は一気に収束へと向かう。この短い説明に詰まっている。

ヨブは自分自身を神よりも義とした。この点にこそ罪があるというのがエリフの思いだった。神義論は、自己義認なしに論じることはできない。

自分を神とすることが最大の罪であること。エリフはそれをヨブが悟るのを待っていた。友人たちがそれを語るのを待っていた。しかし語られず、エリフはしびれを切らした。


ヨブ記 33:14

神は一つの方法によって語られ、また二つの方法によって語られるのだが、人はそれを悟らないのだ。

神が、私の望む方法で語られなかったとしても、別の方法で常に語られている。


ヨブ記 34:10

それであなたがた理解ある人々よ、わたしに聞け、神は断じて悪を行うことなく、全能者は断じて不義を行うことはない。

エリフはヨブに訴える。神が悪を行うことは断じてない、と。これまでに登場した友人たちはヨブの罪を責めたが、エリフの視点は違っていて、神の正義を擁護している。


ヨブ記 35:6-7

あなたが罪を犯しても、彼になんのさしさわりがあるか。あなたのとがが多くても、彼に何をなし得ようか。

ここは特に気に入っている。人が罪を犯しても神に対して何ができよう。人が正しくても神に何を与えられよう。人に対する神の超越性である。神が人に関わるその関わり方は、人と人との関係とは違う。対等な者同士が互いを必要としている関係ではない。神の関わり方は、神から発し、神の関心が動機となり、神の愛がその関係の支えとなっている。


ヨブ記 36:5

見よ、神は力ある者であるが、何をも卑しめられない、その悟りの力は大きい。

「神は強いが誰をもさげすまない」。エリフが強調するのは、神の力と正義だ。エリフが描く神像は、人間を超越した力強く正しい神だ。ところで、新約聖書を読んでから旧約聖書を読むと、神の「あわれみ」があまり強調されていないのが気になる。しかし考えてみるとそれもそのはずで、神のあわれみはイエス・キリストを通じて啓示されたものなのだから、キリスト以前(特にヨブ記は律法以前だが)の聖書表現にあわれみの登場機会が少ないのは当然だ。けれども私たちは、イエス・キリストというレンズを通じて旧約聖書を読んでもよいと思う。神はもちろん力と正義において人間を超越しているが、それだけでなくあわれみにおいても人間を超越している。神の公正と平等は、最も貧しい者にも等しく及ぶ。そういう読みも大切だと思う。


ヨブ記 38:1

この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、

主がつむじ風の中から答えられる。新改訳では「あらしの中から」。

ヨブと友人たちとエリフはおそらく家の中で話していた。そこに暴風暴雨が吹き付けてきて、家がガタガタ鳴ったに違いない。一同は恐れおののいた。ついに裁きの時が来た、私たちは滅ぼされると思ったかもしれない。その中で声が響く。「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者は誰か」。

病に伏し、友人に責められ、自暴自棄になり、神と議論したいとかたくなになっていたヨブのところに、ついに神が来られる。つむじ風の中で。あらしの中で。最悪の状況の中で。もう良くなりようのない絶望の中で。誰にも突破できそうにない行き詰まりの中で。まるでキリストの復活のように、墓の中の絶望がとつぜん突き破られる。


ヨブ記 38:4

わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。

神がヨブに語りかけることばは、謎のようだ。「地の基」から始まり、星、海、朝晩など、次々と被造物が挙げられる。これはお前が造ったのか、お前にはこれが造れるのか。

単純に読むと、やはりここでも神と人とのあいだにある絶対的な差異、神の超越性が語られているように思える。

しかし違った視点でも読めよう。神と、共同体としてのヨブとの歴史を語っているのだ、と。使徒言行録のステファノの説教を思い出すと、彼は神とイスラエルとの歴史を死の直前に語った。それは神がしてくださったこととイスラエルの応答の歴史だった。ヨブは(おそらく)イスラエルの民ではないので、神がヨブとの歴史を語るとき、モーセから始まるイスラエルとの歴史を語ることはできない。だから、自然を通じての神と人との歴史を語ったのではないか。

そういうふうに想像すると、もしもヨブがキリスト以後のクリスチャンだったら、神は何を語っただろうか。やはり、イエス・キリストの生涯と死と復活の歴史を語ったのではないか。


ヨブ記 40:5

わたしはすでに一度言いました、また言いません、すでに二度言いました、重ねて申しません」。

ヨブの一度目の悔い改め。

ヨブに対する神の答えで戸惑ってしまうのは、神はヨブ個人のことについて一度も話題にしていない。ヨブがどんなふうに苦しんできたか、どんな思いで悩んできたか、そこに直接は触れない。黙示録のように、わたしはあなたの熱心と苦しみを知っている、と言っても良さそうなものなのに。ここに記されている神のことばは、ひたすら峻厳な印象がある。

しかし、神は「ありのままのあなた」を受け入れるのとはずいぶん違ったやり方で、ヨブを受け入れておられる。友人たちのように、お前が罪を犯したから病気になったのだ、とは仰せにならない。パノラマ映像を見せるように、被造物たる宇宙をお見せになった。諭すという答え方ではなく、見せるという答え方をされた。神のやり方は計り知れない。


ヨブ記 40:14

そうすれば、わたしもまた、あなたをほめて、あなたの右の手はあなたを救うことができるとしよう。

神がヨブを叱る。悔い改めへと導くために。

神にしかできないことは何か。創造の御業はもちろんそうだが、ここでは裁きと救いが挙げられている。高ぶる者を低めること、悪者を踏みにじること、それがあなたにできるなら、あなたは自分の右の手で自分を救えよう。神の答えの中には創造、裁き、救いがすべて含まれている。


ヨブ記 41:11

だれが先にわたしに与えたので、わたしはこれに報いるのか。天が下にあるものは、ことごとくわたしのものだ。

すべては神のものであるという思想。神に何かを捧げたからといって、もともとは神のものなのだから、神がそれに報いる必要はない。だから神が何かを与えるとすれば、それは何かに対する報酬ではなく、神が一方的に与える恵みである以外にない。神が常に先に与えている。ヨブの最初の言葉「裸で母の胎を出たのだから裸で神に帰ろう」と通じている。


ヨブ記 42:5

わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。

ヨブの二度目の悔い改め。ヨブはその目で神を見て、信じた。トマスのように。

悪に嫉妬することについて

この短い文章は、自分の嫉妬の感情に苦しんでいるあなたに向けて書いたものです。嫉妬の苦しみから解放されるための一助となることを願っています。

嫉妬とは何か

嫉妬は複雑な感情です。話をすっきりさせるため、一般的な話から始めましょう。嫉妬は、以下のような流れで生まれます。

  • 他人が x を持っている
  • 自分が x を持っていない
  • x を激しく欲する
  • x を持っている他人に敵意を抱く

x には、いろいろなものが入ります。お金、社会的地位、成功、知識、健康、良好な人間関係、美貌……。社会的に価値あるとされるあらゆるものが、嫉妬のきっかけになりえます。

嫉妬が複雑なのは、他人の所有がからんでくるからです。自分がある物を持っていなくて、それを激しく欲しているだけなら、それはただの渇望です。渇望、欲求、向上心。それは苦しみをもたらすものではなくて、むしろ生の原動力になります。

嫉妬の特徴は、破滅的な願望であるということです。x を持っている他人を滅ぼそうと願うだけでなく、そのためなら自分の身を滅ぼしてもよいとさえ願います。嫉妬は、x を手に入れるためにアクションを起こそうとする健全な欲求さえも阻害します。いずれ嫉妬は容貌を変えて、x を欲しがる渇望ではなく、x を持つすべての他人を滅ぼそうとする憎しみとなります。そういう意味で、嫉妬は生の足かせです。

善いものに嫉妬することは可能か

先ほどはさらっと書いてしまいましたが、嫉妬のきっかけとなる x は「社会的に価値あるとされるもの」です。「価値あるもの」ではなく「社会的にあるとされるもの」。これは重要な違いです。

「社会的に」という制限を外して、価値あるものを思い浮かべてみましょう。普遍的に、私たちキリスト者にとって価値あるもの。永遠の価値あるもの。

そうです。永遠のいのち、御霊の実、信仰、愛、希望、そういったものです。私たち人間の中には存在しない、神だけがもっておられる価値です。人間が努力によって勝ち取ることも育てることもできない、ただ恵みによって与えられる、何にも取り替えることのできない価値です。

では、質問です。ある人がこういった価値を持っていたとして、その人は嫉妬の対象になるでしょうか。

たとえば、謙遜な人。御霊がその人に内住して、謙遜という御霊の実をみのらせてくださっているとしましょう。その人は、「謙遜」という価値あるものを持っているために、嫉妬の対象になるということがあり得るでしょうか。

個人的には、嫉妬の対象にならない、と思います。

なぜなら、その人が「謙遜」であることによって益を受けるのは周りの人だけだからです。謙遜な本人は、謙遜であるがゆえに、目立たちません。人気も得られず、もしかしたら感謝されることもありません。御霊が私たちに恵みを与えるのと同じ作法で、ひっそりと周りの人に仕えているのです。謙遜な人にとっての利益は、人に注目されないこと、誰にも褒められずに済むことです。

ほんとうに善いものは、人間の中にはなく、神から来るものである。そして、ほんとうに善いものに人は嫉妬しない。いや、嫉妬できない。つまり、先ほどの x において、神から来る賜物は対象外ということです。これは個人的な体験からそうだと感じたことですが、きっと同意していただけるのではないでしょうか。

悪に嫉妬するということ

悪に嫉妬するという表現は、聖書の中にも出てきます。

詩篇73:2-3

しかし、私自身は、この足がたわみそうで、 私の歩みは、すべるばかりだった。 それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、 悪者の栄えるのを見たからである。

箴言24:19

悪を行う者に対して腹を立てるな。 悪者に対してねたみを起こすな。

悪を行う者にかぎって健康で、繁栄していて、長生きして、友人も多い。そういう人に嫉妬してしまいがちな私たちの性質を、聖書はよく知っています。

しかし、嫉妬にはもっと微妙なケースもあります。「善い人」に嫉妬してしまうのが、それです。

善い人、善く見える人。愛があり、多くの人の好意を集めて、感謝されている人。そういう人に嫉妬を感じるとき、あたかもその人の善良さに嫉妬しているように感じます。善いものに嫉妬することはできないのですから、これは錯覚なのですが。

実のところ、そういう人はそれほど善くはないのです。人気取りや、高ぶりや、嫌われたくないという思いから、善さそうにふるまっているだけかもしれません。行ないの動機は本人と神にしかわからやいので、誰にも立ち入ることはできませんが、嫉妬の対象になるということから察すると、周りが評価するほど善いわけではなさそうです。

嫉妬という感情。それ自体は罪の性質であるのに、他人の罪や偽善を見抜くような鋭さがあります。善く見える人の、隠れた狡猾さや高ぶりに反応する。そして、その人が築き上げた素晴らしい結果を見て、嫉妬するわけです。これもまた、聖書の言う「悪者に対するねたみ」ではないでしょうか。

嫉妬の正体を知ることと嫉妬から解放されること

ここまでで、嫉妬の正体を掘り下げてきました。嫉妬は本質的に「悪者に対するねたみ」であり、善いものに対してではないことを書いてきました。それを知ることが嫉妬からの解放の助けになる、と私は考えています。

嫉妬には劣等感が伴います。端的に表現するなら、「なぜあの人は、神にも人にも愛されているのに、私は愛されていないのか」。

しかし、私たちはもう知っています。このときに起こる嫉妬は、「あの人が神にも人にも愛されている」からではないのです。そのように見えたとしても、愛や祝福が嫉妬の原因ではありません。その人の内に隠された罪の性質に反応して、嫉妬の導線が発火したのです。嫉妬は相手の罪の性質を上手に隠蔽して、「お前は愛されていないのだ」と攻撃の矛先を変えてきます。

嫉妬の戦略。嫉妬も「罪の誘惑」のひとつなのですから、人間を破滅させるための戦略を持っています。嫉妬の戦略は、真実を隠すこと、劣等感を植え付けること、破滅的願望を強めることです。「あの人が神にも人にも愛されているから私は嫉妬する」というのが、嫉妬の最初の戦略です。そのようにして真実を隠します。

ですから、最初の戦略に抵抗して、真実を暴くなら、嫉妬の出鼻をくじくことができます。「あの人が愛されているから」ではなく、「あの人も罪人だから」。これです。これを知れば、もはや劣等感に悩む必要はありません。

知識だけで嫉妬から解放されるわけではありませんが、知識も助けになると思います。

弱者らしくあらねばならぬという規範

貧困JKに始まったことではない。日本にはどういうわけか「弱者は弱者らしくあらねばならぬ」という規範がある。弱者に対して「弱者はかくあるべし」という弱者像を押しつけ、その弱者像から外れた者を批判・排除する。ものさしに合わない者が「弱者」としてニュースなどで紹介されるとネットで炎上して弱者叩きが起きる。これが何度も繰り返されている。

なぜこのようなことが起きるのか。弱者叩きに一定の正義があると信じる人たちがいるからだ。だが、その正義の内実がいかに空虚で無責任なものかを明らかにしたい。

重要な原則として、弱者を定義する目的は弱者を救済するためである。これに同意できるかどうかが議論の分かれ目である。

さて、弱者を定義する目的は弱者を救済するためである。貧困を例にとろう。誰が貧困であり誰が貧困ではないかを線引きするのは何のためか。貧困の定義はいくつもあるが、適切な定義を求めるのは何のためか。それは、社会の中で誰が貧困であるかを明らかにして、貧困者を支援するため以外のなにものでもない。

もちろん論理的可能性として、他の目的はありうる。弱者像を押しつける者にとっては、「ニセの貧困者を暴き出すため」かもしれない。素朴に考えると、ニセの貧困者を暴き出すことで、社会の貧困支援の支出を減らせるのだから、その目的は正当なのだと主張できる。だが、事はそれほど単純ではない。貧困JKの例を思い出そう。彼女は貧困者として国から支援を受けているわけではない。しかしニセ貧困者として叩かれた。叩く人たちにとって「ニセの貧困者を暴き出す」という目的には、それ自体が目的として価値をもつような正義なのだ。

しかし、弱者を定義する目的がニセ弱者を暴き出すためであって救済のためではないのだとしたら、ニセ弱者が排除されたのちに残る「ほんものの弱者」は何のために切り出されたのか。その中でさらに偽物がいるのではないかと嗅ぎ回るためか。偽物判定を受けた者たちが次々に脱落して、弱者にカテゴライズされるものが一人もいなくなるとき、「ニセ弱者を暴き出す」という目的は遂に達成される。